2018.5.25

【保存版】SOUND CLASH HISTORY 〜サウンドクラッシュはどこから来て、どこへ行くのか?〜

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SOUND CLASH!!

それはジャマイカが生んだレゲエミュージックには欠かせないカルチャーであり、血湧き肉踊る「音と音とのバトル」!!
参加者たちはMCでのDISSり合いはもちろんのこと、ここでしか聴けない「DUB PLATE」を繰り出し、熱き戦いを繰り広げる!! 日本には世界チャンピオンMIGHTY CROWNの存在もあり、広く知られている音楽文化であろう。
そんなMIGHTY CROWNも2016年にはめでたく結成25周年を迎え、また「サウンドクラッシュ」という文化もレゲエの枠を超え、独自の広がりを見せている。あの世界的飲料メーカー『RED BULL』が主宰する『RED BULL CULTURE CLASH』においては、ジャンルを横断して世界TOPのDJ陣が集い「サウンドクラッシュ」で競い合った。そんな同イベントには開催されるたび数万人単位(!)の動員があり、シーンをNEXT LEVELに推し上げていることはアンテナの高い読者諸兄は既にご存知だろう。

そんな今だからこそ、いま一度サウンドクラッシュにまつわるエトセトラをしっかりと紹介する必要があると筆者は考える。最近このカルチャーに興味を持った人はもちろんのこと、「何を今さら」な人まで、サウンドクラッシュを更に楽しむためのガイドになれれば幸いだ。

90年代

さて本稿は“サウンドクラッシュの歴史”というテーマで書き進めていこうと思うが、限られたページ数の縛りもあるため、重要なトピックだけを抜き出し、駆け足で時代を辿っていこうと思う。

まず最初に紹介しなければならないのは、何と言っても“神様”RICKY TROOPERであろう。 

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 ジャマイカの老舗サウンド・クルー『KILLAMANJARO』に89年、DeeJayとして加入(※レゲエの世界では歌い手を指す言葉。一般的な“DJ”はSELECTORと呼ばれる)。93年「STONE LOVE vs METRO MEDIA vs KENYATT vs KILLAMANJARO」戦において、JAROのメインSELECTORの代役で出場した際のPlayが反響を呼び、以後JAROの看板SELECTORとして活躍。“同じ曲の二度がけをするな!(Play Back)”や“あらかじめ相手が言いそうなことを予想しておいて、それを攻撃するDUBを仕込んで、潰す(Counter Action)”など、現在のサウンドクラッシュにおける基本ルール・戦法は、すべてTROOPERが歴戦の中で慣例化させたもの。サウンドクラッシュが基本的には大金を投入してのDUBの撃ち合いであるのも、TROOPERが

“BIG SOUNDは誰でもかけれる45じゃなくて、EXCLUSIVEなDUB PLATEでサウンドを殺すんだ!!”

と言い出し、事実それで勝ち続けたから定着したものである。

それまではルールらしきルールも曖昧で、サウンド所属のアーティストも含めての“総当たり戦”だったサウンドクラッシュを、現在の形に様変わりさせたのは紛れもなくRICKY TROOPERであり、クラッシュの歴史を語る際は、必ず“TROOPER以前 / 以後”で分けられる。そしてそんなJARO時代のTROOPERを語る際、必ずワンセットで出てくるのが95年に開催された『KILLANJARO vs KING ADDIES』の一騎打ちである。 

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 キングストン市外の港町・ポートモアに1万人(!!)を集客したこの一戦は、今でも「HISTORY CLASH」としてレゲエの歴史に刻み込まれている“伝説”であり、PAPA U-Gee、SAMI-T(MIGHTY CROWN)、BOOGIE MANなど、日本人アーティストも多数観戦に駆けつけた。その時の模様を、BOOGIE MANは同年『REAL TIME JAMAICA』という楽曲で以下のようにリリックに綴っている。 

Kingstonに着いていきなりサウンド・クラッシュ KILLAMANJARO vs ADDIES
片やジャマイカ 片やニューヨーク 初日から運が向いている
開催場ポートモアまでドライブ ジャークチキンにジャークポーク
片手にはレッドストライプ・ビール 入場料ジャードル150
ゲートの前で人が溢れてる 黒だかりの長い行列
入り口まで何分かかる スキ見せりゃ横はいりされる

 

Jamaica 憧れの島
Jamaica 澄んだ海 青い空
Jamaica ラガ ラガ ブヤカ ブヤカ
Jamaica Load a marcy

 90年代はジャマイカにTROOPERという天才が現れ、文字通りジャマイカンミュージック史に“革命”をもたらした時代であった。そして、そんな90年代も終わりに差し掛かろうとしていた99年、また新たな“革命”が巻き起こる。そう、『JUDGEMENT』と『MIGHTY CROWN』という二組の日本人サウンドの連続世界タイトル奪取である! 

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 『JUDGEMENT』は、あの有名レコ屋『ROCKERS island』の設立者であるTUCKERが率いたサウンド。レコードの買い付けで訪れたジャマイカで彼はTROOPERに弟子入りし、直々にクラッシュのいろはを叩き込まれる(なので当時国内のクラッシュでは“子ジャロ!”と呼ばれてDissられていた)。そんな『JUDGEMENT』が99年、UKにて開催されたサウンドクラッシュ「Global Gold Cup」に日本代表として出場し、BASS ODYSSEY(JA)、LP international(NY)など、錚々たる面子を向こうに回し見事優勝! 「日本初、アジア人初のサウンドクラッシュ世界チャンピオン」となったのだ。

そして続く『WORLD CLASH NY』。KILLAMANJARO、TONY MATTERHORN(※当時はADDIESを抜けてソロになったばかり)など世界TOPクラスのサウンドが居並ぶ中、何とこれまた日本のサウンド『MIGHTY CROWN』が優勝!! 

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 「無名のアジア人サウンドが二組続けて世界タイトル獲得!」「神様敗れる!!」

この衝撃的なニュースは瞬く間に世界中のレゲエ・ファンに伝わり、特にカリビアン・コミュニテイの間では大きな波紋を呼んだ(※結局、この後RICKY TROOPERは敗戦の責任を取ってJAROを脱退)。

1999年、ノストラダムスは来なかったが極東の島国からやって来た二組の“サムライ”たちは、クラッシュ・シーンに大きすぎる爪痕を残した。そして時代は2000年代に突入。あの狂騒の第三次レゲエ・ブームが幕を開け、サウンドクラッシュもその渦の中に巻き込まれていくのである……!!

00年代

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 2000年代はサウンドクラッシュという文化が大きな発展を遂げた時代であった。SEAN PAUL、ELEPHANT MANらのブレイクに端を発する世界的な第三次レゲムブームが起こり、「DUB」や「サウンドシステム」というカルチャーが世界中に伝わると同時に「サウンドクラッシュ」も広く認知されていく。

クラッシュ・シーンは世界規模の群雄割拠の戦国時代に突入。

ビッグクラッシュでは、BLACK KAT(ジャマイカ)、BASS ODYSSEY(ジャマイカ)、TONY MATTERHORN(ジャマイカ)、MIGHTY CROWN(日本)、DAVID RODIGAN(イギリス)、らが入り乱れ、覇を競い合った。
中でも忘れられないのはやはり「MIGHTY CROWN」の存在であろう。

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 筆者はリアルタイムだったということもあるが、やはり周り全員が黒人、という状況下で肌の色のちがうアジア人が孤軍奮闘している姿には特別な感情を抱かざるを得ない。そして彼らの活動が世界の「非・黒人」レゲエサウンド達に大いなる勇気を与えたのは紛れも無い事実。たとえば05年のワールドクラッシュで優勝した『SENTINEL(ドイツ)』などはモロにMIGHTYの影響下にある。また、世界のクラッシュシーンで活躍する後進の日本人サウンドは、ほぼ全てが「MIGHTY CROWNチルドレン」であると言えるだろう。

彼らが海外で強豪たちと戦いを重ねる中、国内で主催するレゲエ・フェス『横浜レゲエ祭』は加速度的にその動員数を増やしていき、最終的には横浜スタジアムに三万人を集客する、というところまで到達。それは“時代”の後押しもあったであろうが、自分を含め日本中のキッズにでかすぎる夢を見せてくれた。
ちなみに、今では当たり前となった“夏フェスでタオルをプロペラのように振り回す所作”は、もともとMIGHTY CROWNが『BEENIE MAN & IWER GEORGE / CARIVAL COME BACK AGAIN』のDUB(01年ワールドクラッシュの秘密兵器!)をかけてやったのがそもそものハシリであり、自身がプロデュースするFIRE BALLがメジャーデビューする際、『BRING IT ON』の振り付けとして採用し、日本中に広めたものである。
MIGHTYが広めた“タオルプロペラ”はすっかり夏フェスお馴染みとなり、今ではアイドルのコンサートですらその光景を見ることができる。 

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 彼らの歴戦の中でも、何と言っても思い出深いのは“GAME OVER”と銘打たれ『WORLD CLASH NY』が一旦その歴史に幕を下ろすこととなった07年度の大会であろうか。最後のTUNE FI TUNE、“後一曲!”というところまで追いつめられたMIGHTY が『JIMMY CLIFF / HARDER THEY COME(※奴らは俺を追いつめてるつもりだろうが逆に追いつめられてることを知らない!)』をかけ、奇跡の巻き返しを見せて行く様はもはや感動的ですらある……! そして翌08年には“聖地”ジャマイカで行われた『WORLD CLASH JAMAICA』でもアジア圏のサウンドとして初優勝。MIGHTY CROWNは世界のレゲエシーンにおける地位を名実ともに不動のものにする。 

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 そして00年代後半といえば、何と言っても忘れられないのは『INFINITY 16』だ。MIGHTYとは同じ横浜エリア出身で、新進気鋭のクラッシュ・サウンドとして既に国内では名を馳せていた彼らだったが、07年NYにて行われた『Garrison Showdown』にて、TUNE FI TUNEでBLACK KATを下し、優勝。“MIGHTY CROWN、JUDGEMENT以来初めての世界タイトル保持者”となる。
フロントマンTELA-Cと、レゲエシンガー『MUNEHIRO』としても活躍する鈴木紗理奈の結婚が発表されたのはこの翌年で

「サウンドクラッシュで世界一になったら芸能人とも結婚できんのかよ!!」

と、日本中のキッズが色めき立ったものである。 

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 ※明治神宮で行われた当時の挙式の模様。

 

……しかし、ちょうどこの頃からぼくはサウンドクラッシュに対する興味を急速に失っていく。
理由は色々あるがやはり大きなものとしては「DUB」である。

「DUB」といえば、

“サウンドがアーティストに依頼して作る一点モノのプロモ・チューン”

であるが、若手がせっかくいいところまで行ったのに、永年やってる大御所サウンドが、もう二度と録音ができない故人アーティストのお宝DUBをかけて逃げ切り、というような展開にはもう辟易(へきえき)していた。また、レゲエブームの中でDUBの価格が異様に高騰。資金的な面で新しいサウンドが参戦しづらい状況が出来上がっていた(※INFINITY 16も世界タイトルを獲得した後、オリジナルメンバーのDESEMが脱退。以降海外のクラッシュには参戦していない)。
この頃、“行き過ぎたDUB代”について、MIGHTY CROWNのリーダー・MASTA SIMONはレゲエ系フリーペーパー『Strive』にこんな“警告”的な文章を寄せている。

サウンドが高いダブ代を払うから、アーティストも当たり前だと思ってどんどん値段を上げてくる。売れてない奴も、“売れたら絶対1000ドル”が目標となる。そうなると日本以外のサウンドのダブ代も自動的に上がるから、サウンドはプロモーターに高い出演料を要求する。そうするとプロモーターが入場料を上げる。そしたら客が大変、値段が高いのでいいカードじゃないとダンスに行かなくなる。かなり悪循環。アーティストにとってはいい話だが、サウンドにとっては苦しい状況。
『Strive』2007年4月号 『SOUNDMAN'S TALK』より


“クラッシュはもうダメだ”。

09年、BASS ODYSSEYのフロントマン・SQUINGYが病魔に侵され急逝したことも、なお自分にその思いを強くさせた。1999年、MIGHTY CROWNとJUDGEMENTが初めて世界タイトルを手にした時からちょうど10年が経っていた。

10年代

気づけば海外のサウンドクラッシュに日本のどのサウンドが出て、どんな戦績を残したかもほとんど気にもしなくなっていた頃、誰かがTwitterに載せていたフライヤーが目に留まった。

『Red Bull Culture Clash』。 

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 その名の通り、あの『Red Bull』が主催するベースミュージックのフェスで、ジャンルを横断して世界TOPクラスのDJ同士が“サウンドクラッシュ”を行うという、まさに“超豪華な音の異種格闘技戦”という趣だった。以前から存在は知っていたが、特に2014年度のロンドン大会はSTONE LOVE、DAVID RODIGANらのダンスホール界隈でもお馴染みの面々が参戦するとあって、ぼくも思わず興味を持った。

クラッシュ当日、STONE LOVEが秘蔵のSUPER CATのDUBなどをかける中、RODIGAN率いるREBEL SOUNDがRIHANNAの全米1位曲『WE FOUND LOVE』の当日用仕込みDUB(!!!)という鬼のような飛び道具を繰り出し、対戦クルー全員を文字通り“皆殺し”にしていたのには度肝を抜かれた。

youtu.be

後から聞いた話だが何故そのようなブツが用意できるかと言うと、スポンサーがRed Bullで、あの会社が世界を視野に入れたプロモーション戦略の一環で行っているイベントなので、各クルーが使ったDUB代の何割かは経費で落ちる(!!!)んだとか。

“こんなことが出来るのか”
“亡くなったアーティストのDUBを使わなくても勝てるのか”

『Culture Clash』は何とも新鮮な驚きをぼくに与えてくれた。何かが動き出そうとしていた。

そして『Culture Clash』といえば、同じくロンドンで開催された2016年度の大会も忘れ難い。優勝したMIXPAKにはTONY MATTERHORNやフィメールDeeJayのSPICEなど、著名なダンスホール系のゲストもこの日のために多数参加したが、現在ジャマイカで人気絶頂の存在であるPOPCAANがコールし、DRAKE『ONE DANCE』のスペシャルDUBが放たれた時が、何と言っても一番のハイライトであろう。 

www.youtube.com

実は『ONE DANCE』も収録されているDRAKEのモンスター・アルバム『Views』(2016年度ビルボード年間チャート2位!)には当初POPCAANも参加する筈だったのだが、結局その話が流れ、SNSで本人が怒りを露わにしたのを皮切りにビーフが勃発。オブザーバー紙(※ジャマイカの新聞。日本で言う『朝日』や『読売』に匹敵する)にDRAKEへの批判記事が載り、更には全然関係ないMr. VEGASまで首を突っ込んできて、HIP HOP系の名門ラジオ曲HOT 97の番組で“DRAKEは俺たちの文化を利用するフェイク野郎!!”と発言するなど、この時事態は個人間の範疇を超え、「ジャマイカ vs ドレイク」のような図式になっていたのだ。

そんな一連の騒動にキッチリと落とし前をつけてくれた訳だ。三万人を集客した『Culture Clash』の檜舞台で。“サウンドクラッシュ”という、何ともレゲエらしいやり方で!

「まだ、クラッシュで感動できるんだなぁ……」

まるで初めてこの文化に触れた10代の頃に戻ったみたいだった。

あとがきにかえて

1940年代、ジャマイカでは貧しい庶民の娯楽として“サウンドシステム”が大きく発展していた。サウンドシステム(※レゲエではお馴染みの巨大スピーカー)から流れる最新の音楽を聴き、酒を煽り、星空の下のダンスパーティーで日々の憂さを晴らしていた。当時、そんなダンスホールの多くはロッジホール(社会福祉用の集会場)や、ローン(芝生の広い空き地)に設営された。広い敷地に、いくつものサウンドシステムが場所を占め、互いに聴衆を煽って盛り上がりを競い合ったのがサウンド・クラッシュの起こりだと言われている。1952年、最初期のサウンド・マン、TOM THE GREAT SEBASTIANと、COUNT NICK THE CHAMPの激突は“最初のサウンドクラッシュ”として、今も語り継がれている。まだジャマイカではSKAの誕生以前で、人々はダンスホールで流れるアメリカのR&BやJAZZで踊っていた時代。

そう、レゲエの「レ」の字もないような時代から、ジャマイカには「SOUND CLASH」という文化が存在していたのである……!

それから半世紀以上が過ぎ、カリブの小さな島国で生まれたこの音楽文化は今や世界中に広まっている。
それは人種も民族も越え、いつしか音楽ジャンルさえも飛び越えた! この先このカルチャーは何を越え、どんな風に変わっていくのだろう? 固唾を呑んで見守りたい。

 

 

 

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●-SOLO BANTON-

ライター / デザイナー。

全国各地のフライヤーやCDジャケットをPOPに美しく彩る『ソロバングラフィック』代表。また音楽ライターとしても活躍し、特に日本のレゲエシーンにおけるトレンドを生み出す重要人物として広く知られている。