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2019.4.5

【保存版】平成最後の大総括!日本語レゲエの30年史-Episode2:2000年代-

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【保存版】平成最後の大総括!日本語レゲエの30年史-Episode2:2000年代

【保存版】平成最後の大総括!日本語レゲエの30年史-Episode2:2000年代

00年代

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『SOUL REBEL 2000』で大トリを務めたMOOMIN(写真右)

迎えた新世紀。西暦2000年という年は日本語レゲエのひとつのターニングポイントであった。

まず、秋に日比谷野外音楽堂で行われた第一回『SOUL REBEL』の成功。

これは(現在はwebに移行した)老舗フリーペーパー『Riddim』の発刊、また旧くはレゲエ映画『ROCKERS』の配給などで永きに渡りシーンをサポートしてきたOVERHEAT社主催のものであったのだが、日本人レゲエアーティストのみで、歴史と伝統ある「野音」の会場を埋めれた。という事実は一般層にアピールする意味でもとてつもなく大きかった。

そして時間軸は前後するが、この年の夏にはMIGHTY CROWN主催の『横浜レゲエ祭』が『サウンド編』『アーティスト編』と2 DAYSに渡って開催され、その時の模様は後に一本のVHSビデオにまとめられ、リリースされる。

まだYouTubeはおろかインターネットすら普及していなかったこの時代、日本人レゲエアーティストの動く姿を観ようと思ったら「現場」に行く以外はたまにスペシャで流れる特番を録画するぐらいしかなく、この映像ソフトが果たした意義は大きい。自分も含め、10代の頃あのビデオを食い入るように見ていた三十路レゲエファンは数知れないだろう。

 

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こうした先人たちの努力の結果、この2000年という年を境に「何か日本人のレゲエがやばいんじゃねぇか!?」という気運が徐々に高まっていく。

 

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そして『SOUL REBEL』 『横浜レゲエ祭』、前述の二つのフェスで共にバッキング・バンドを務めたのが『HOME GROWN BAND』である。

この時期彼らの存在が強く求められた背景には、やはり“PUSHIM”や“MOOMIN”と言ったレゲエシンガーが先がけてメジャー・デビューしていたことが大きいと思うが、本場ジャマイカではシンガーだけでなくDeeJayも大きなSTAGE SHOW(コンサート)ではバンドでやることが当たり前であり、彼らの存在があって初めて「本場さながら」のレゲエ・フェスがここ日本で実現できたと言える。

日本のレゲエ・フェスにおいてHOME Gは「必要不可欠」。まさに“日本のサジタリアス”(※)とでも云うべき存在であった!!

 

(※)サジタリアス・バンド……

鬼才デリック・バーネットが率いたJAのダンスホールレゲエバンド。特に80年代後半から90年代初頭にかけてジャマイカの主要なレゲエ・フェスはほぼ全てにおいてバック・バンドを担当した。

 

HOME Gは自らがプロデュースを務め、彼ら名義で何枚かのコンピレーション・アルバムも発表している。そんな活動の中から生まれたHITが名曲『星にお願い』である。

 

 

 

HOME Gとは同じ神奈川エリアをrep.するベテラン『H-MAN』と、シンガーNEOをゲスト・ボーカルとして迎えた本作は、ちょうど『横浜レゲエ祭』のアンセムとして広まった『MIX UP』という楽曲の存在もあり、“日本版MIX UP”としてレゲエ・リスナーから熱狂的に受け入れられる。男女のデュエットということもあり、筆者をはじめ現在30代のレゲエ好きにはまさしく“青春の一曲!”のひとつである。

 

ちなみに未だにこの曲を聴くと、10代の頃付き合っていた彼女とカラオケ屋で“じゃあおれH-MANやるからね〜”と言って、ふたりで歌ったことが思い出される。三十路になった今、30代の友達と話すと“それ俺もやった!”と言われることも多く、同世代はみんな同じことをやっていたんだなと(笑)。

 

“とにかく俺はキミとやりたい 三、四がなくても五でやりたい!って言ったら言うぜ彼女だいたい……”

 

あの子は幸せになれたのかなぁ。

 

そして激動の2000年が過ぎ、翌2001年は皆さんご存知『三木道三 / Lifetime Respect』が大ヒットした年である。

オリコン一位、累計売上枚数90万枚。という紛うことなき「大ヒット」。

『JAPAN一番』を唱え、“日本人として日本で日本語のレゲエをどう根付かせていくか?”という命題を日々模索していた男の“悲願”はここで達成されたのであった。

 

余談だが、この年16歳のぼくは先輩であったSIN'G-ROY(現SING J ROY)に導かれるように、北陸福井の片田舎でレゲエDeeJayとしての第一歩を踏み出している。

 

SUPERSTARのリディムに乗せて緊張しながら初めて握ったMIC。

クラブに行く時の勝負服はXXXLのペンディーンのアミシャツにペレペレのデニム。

街を歩けば流れていた『Lifetime Respect』。

 

ちょっと恥ずかしくてほろ苦い、オレの青春。

 

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左が「DJ編」で右が「シンガー編」。二枚を繋げると一枚絵が完成する。

2001年は、日本人イラストレーター・MURASAKIのイラストが世界最大のレゲエ配給レーベル『VP RECORDS』の長寿コンピ『STRICTLY THE BEST』のジャケットに起用されるという、ドラスティックな出来事が起こった年でもある。

 

もともと、CISCO大阪店の店長で、関西ファッション誌『カジカジ』での漫画連載や、カエルスタジオ関連のアートワークを手がけていたことでにわかに注目を集めていた氏であったが、この出来事をきっかけに日本全国にその名が知れ渡ることに。『STB』のジャケは翌2002年も引き続き担当し、この頃からMIGHTY JAM ROCKのアルバムアートワークや、夏の『HIGHEST MOUNTAIN』の公式フライヤーもレギュラーで手がけることになる。

一時期は、有名なレゲエ・サウンドが出す日本人コンピレーションアルバムのジャケのほとんどを氏のイラストが飾っている……なんてことも珍しくなく、まさに“時代”のアイコンのひとつであった。

 

LIMONIOUSのヘタウマな絵を見れば目に浮かぶのは煙モクモクの80年代のジャマイカのダンスホールであるが、ムラサキさんのイラストを見ると思い出すのは皆がカラフルなタオルを振り回す2000年代の日本のフェスの風景である。

 

2002年には『MINMI / Perfect Vision』が、オリコン4位となるHITを記録。今に至る同アーティストのキャリアが本格的にスタートすることとなる。

同曲は元V.I.PバンドのメンバーでもあったKAMISHIROが手がけたもので、他には『Keyco / SPIRAL SQUALL feat. Chozen Lee』や、『MOOMIN / MOONLIGHT DANCE HALL』なども氏がRIDDIM TRACKを制作した作品。

00年代前半の日本語レゲエを語る上で上代さんが果たした役割は大きく、まさに“影の立役者”の一人と言って過言ではないだろう。

 

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FIRE BALLもこの年メジャーデビューを果たしている。 彼らがシーンに持ち込んだものと言えば“タオルプロペラ”だ。

もともと、“フェスでタオルをプロペラのように振り回す”のは、プロデュースを手がけるMIGHTY CROWNが『Iwer George  / Carnival Come Back Again』のDUBをかけてやったのがそもそものハシリであるが、FIRE BALLがメジャーデビューする際、『BRING IT ON』の振り付けとして採用し、日本中に広めたものである。

グッズとしてのタオルの売上は、フェスの収益を担保する上でも重要な財源のひとつとなり、『レゲエ祭』をはじめとする各地のレゲエ・フェスが拡大していく上で大きなエンジンとなっていく。

 

MIGHTY、そしてFIRE BALLが広めたタオルプロペラはジャンルの垣根を越え夏フェスお馴染みのものとなり、今ではアイドルのコンサートですらその光景を見ることができる!

 

 

この頃、海の向こうでは『Wayne Wonder / No Letting Go』がHITを飛ばし、同じ『Diwali』trkを使用してる『Sean Paul / Get Busy』は、ジャマイカ人レゲエアーティストとしては“初”となる全米3週連続一位という快挙を成し遂げる。MTVをつければJanet Jacksonと砂浜でワイニーするBEENIE MANの姿が映り、第三次レゲエブームが本格的に幕開けしていた。

そして、それはここ日本でも間もなく現実のものとなった。

 

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八景島を埋め尽くす超満員の観衆。

2003年からその後の数年間は、ある世代にとっては忘れ得ない日々だろう。

 

まず、03年8月に『横浜レゲエ祭』が八景島シーパラダイスで初の野外開催。しかも観客動員数は前年を倍以上に上回る1万人!!

 

それまでにも日本で万単位の観衆が集うレゲエのフェスはあった。しかし、それはアーティストも、またバックを務めるバンドも、皆海の向こうから「来てもらって」やったものだ。

しかし、今はちがう。すべてを自分たちの力で創りあげたのだ。

「日本語でレゲエが歌えんのか?」「日本人にレゲエなんかやれんのか?」

そう言われていた時代から始まって、とうとう「日本人による母国語のレゲエ」はここまで辿り着いたのだった!!

 

 

 

 

この年、リリースされた作品で何と言っても忘れてはならないのは『ESCAPE Riddim』だ。

東京の女性サウンドクルー・HEMO&MOOFIREの初プロデュース作であり、印象的なRiddim Trkを手がけているのはモンスター・リディム『Diwali』の制作者でもあるLENKY(※LENKYは日本人ものとしては他に『PUSHIM / I WANNA KNOW YOU』なども手がけている)。

 

当初は7インチレコードのみのリリースであったが、特に『KEN-U / DOKO』、『MICKY RICH / WINE YEAH』の二曲が人気を集め、当時の「着うた」での根強い人気も手伝って、異例のロングラン・ヒットに。気づけば00年代を代表する日本語レゲエ曲として不動の地位を確立するまでに至る!!

 

今となってはあまり知られてはいないが、『ESCAPE』は日本人・ジャマイカ人アーティスト混合で15曲入りのワンウェイ・アルバムも最初からリリースされており、その中には若き日のVYBZ KARTELがボイスしている曲も存在する(!!)。

 

日本のレゲエ・シーンが急速に肥大していく中で、あくまでStrictryなジャマイカン・マナーに則って作品を制作したこと。そしてその作品を最終的には大ヒットにまで導き、

「レゲエには曲のトラックだけを『Riddim』と呼んで独立したものとして捉え、同じRiddimの上で複数のアーティストが曲をリリースする独自の文化がある」

ということを広く認知させたこと。

この時代にHEMO&MOOFIREが果たした功績は計り知れない。

 

翌2004年には『横浜レゲエ祭』は、クラブで開催していた頃から数えてちょうど10周年を迎え、開催場所も八景島からみなとみらいに移して2万人を集客する。また、西の『HIGHEST MOUNTAIN』は舞洲にて初の野外開催となり(ちなみに舞洲は90年代にJAPAN SPLASHが開催されていた場所でもある)、こちらは1万3千人を集客。東西二大フェスは倍々ゲームでその規模を拡大していった。

 

そしてそれに続けとばかり、各地方では数千人規模のレゲエ・フェスがそこかしこで開催。

 

メディアには「ジャパニーズ・レゲエ=ジャパレゲ」という言葉が頻繁に躍り、街を歩けばラスタカラーのアイテムを身につけた人もよく目についた。この頃ぼくは19歳。本当に「ブーム」が来たんだなということを実感させられたものだった……。

 

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この、2000年代の日本のレゲエブームを象徴するような存在のひとつが「HOTTIE CAT」である。

奈良県出身の女性レゲエダンサー二人組で、TV番組『少年チャンプル(スーパーチャンプル)』に採り上げられたことにより人気が爆発。二人の美しいルックスも手伝って、アイドル的存在としても注目の的に。全国にレゲエダンサー旋風を巻き起こす!!

 

物心ついた頃からiPhoneを持っているような今の若い世代にはちょっと想像がつかないかも知れないが、当時の個人発信のメディアというものは今の時代に比べたら極端に少なく、SNSはやっとmixiが登場した程度(当初はパソコンからしかできなかった)、全国のレゲエ人はガラケーで、「魔法のiらんど」の掲示板で交流しているような時代である。

 

そんな時代に「TVに出演し、しかもそこで話題になる」ということがどれ程の影響力を持っていたかお分かりになるだろうか?

 

HOTTIE CATはサザンオールスターズのツアーダンサーなどにも抜擢され、日本語レゲエ的には「lecca」(※現在は都議会議員となった斎藤れいな)のバックダンサーとしての活動も永年に渡って継続。08年にはギャッツビーのCMに出演しあの木村拓哉との共演も果たす(※CHIEさん産休だったため代打でKIYOさん)。

 

二人は2011年の東日本大震災を機に帰郷。現在はMEGUもCHIEも子どもを授かり、生まれ故郷の奈良で幸せに暮らしている。

 

『スーパーチャンプル』でDA PUMPと共演するHOTTIE CAT。

 

 

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湘南乃風』もこの、レゲエブームまっただ中の頃にメジャーデビューを果たしている。初期のCDシングルのジャケをヤンキー漫画の巨匠・高橋ヒロシが手がけていることからも分かるように、当初から「不良」のイメージを強く打ち出したグループであり、この頃、10代を中心に急速に人気を集めていた。

 

その人気っぷりは凄まじいもので、活動はレゲエの枠を超えてポップ・フィールドに進出するまでに及び、2006年にはご存知『純恋歌』がリリース。オリコン2位を記録する大ヒットに!

今でもたまに、TVで芸人がHAN-KUNのものまねをして『純恋歌』を歌うのを見かけることがあるが、改めて「歴史」を作った曲なんだなということを実感させられる。

 


 

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初めて横浜スタジアムで開催された『横浜レゲエ祭』

2006年、『レゲエ祭』が初の横浜スタジアムで開催され、3万人を集客。また、西の『HIGHEST MOUNTAIN』は舞洲で2万5千人を集客し、ジャパニーズ・レゲエ・シーンはひとつのピークに達しようとしていた。

 

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この年、「東」でも「西」でもない日本の真ん中、東海エリアをレペゼンするDJ&シンガーのデュオ『MEGARYU(MEGAHORN & RYU-REX)』のアルバム『我流旋風』がオリコン初登場一位を記録する。

『MEGARYU』は『レゲエマガジン』の初代編集長、加藤学氏(2011年永眠)がプロデューサーとして制作に携わっていたユニット。90年代の『JAPAN SPLASH』の遺伝子(※)は形を変えて受け継がれていたのだ!!

『横浜レゲエ祭』や『HIGHEST MOUNTAIN』の偉業はもちろん忘れてはならないものだが、それとは別路線で、日本でレゲエを広めようとした人たちが居たこともまた、忘れてはならない。

 

(※)『レゲエマガジン』は『ジャパンスプラッシュ』を運営していたタキオンが発刊していた雑誌。『ジャパスプ』の広報誌という役割も担っており、『ジャパスプ』で海外アーティストが来日する際は詳細なバイオとともに『レゲエマガジン』にインタビューが載るのが通例であった。

 

 

06年に生まれた名曲と言えば『CHEHON / みどり』だ。使用されているRiddimは当時流行った『GUILTY』をジャマイカから公式ライセンスしてきたもので、『SOJAH / PON DI CORNER』などと同オケ。

リリックに“仕掛け”が施してあり、

「ただのラブソングと思いきや実は……」

という内容が話題を呼んでBUSS。リリース当時弱冠22歳だったCHEHONは、この曲を切っ掛けに一躍脚光を浴びるようになる。

 

『みどり』の人気を後押ししたのは、各地のサウンドマンが録って現場でかけた“DUB”だった。

 

この頃、レコーデイング環境はデジタルに移行しており、Pro Toolsを導入し、自宅スタジオを構えるサウンドマンが全国で急増。まだCDも売れている時代だったのでALL DUB MIXをリリースするサウンドもとても多かった。

すると当然ながらネームバリューのあるアーティストに依頼しているだけでは“弾”が足りなくなり、若手アーティストにも目を向けざるを得なくなる。

 

そうした流れの中で生まれたHITが『みどり』であった。だから本当に“現場発”のHIT TUNEである。

 

ちなみに筆者が2016年にCHEHONにインタビューした際は

“今までで『みどり』のDUBは余裕で200本以上は録ってますね”

との発言を残している。

 

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この頃、シーンに登場したアーティストの中では何と言っても『笑連隊』を忘れてはならない。

それ以前にもランキンさんやH-MANという存在はあったものの、当時まだ20代前半だった若者たちが真っ向から笑いに取り組むという姿勢は当時としてはかなり異質なものであった。

しかし、結果として彼らが支持された背景には

「日本人のレゲエはお笑いだ!とか言う奴らもいるけど、じゃあお笑いやっちゃいけないのかよ!!」

という皆の内なる声を代弁したことにあると思う。

 

そうなのだ。確かに何でもかんでもお笑い扱いされるのは嫌だが、だからと言って「笑い」の要素が完全に封印されるのも何とも寂しい。“レゲエ”はそんな懐の狭い音楽ではないのだから……。

 

当初こそ異端扱いされた笑連隊であったが、1stミニアルバム『人間合格』をリリースした頃から全国で引っぱりだこになり、2008年にはHIGHEST MOUNTAIN出演も果たしている。

 

 

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また、『ARARE』の存在も重要だ。

横浜レゲエ祭への登竜門企画『Road to レゲエ祭』で優勝したことから注目を集め、全国区のアーティストに。

 

シーンに登場した頃はまだ20歳という若さであったが、そんな彼が80sのオールドフローでトゥースティングする様は何とも新鮮であり、若いMIC持ちたちのオールドスクール再評価の流れを作った。

ラブダブ巧者としても知られ“現場”での強さには定評があるアーティストで、自身が優勝した06年度の『Road to レゲエ祭』におけるDANGER SHUへのアンサーは伝説として語り継がれている。

 

笑連隊もそうだが、どんなに流行っても出自である「ストリートミュージックとしてのレゲエ」は求められるわけであって、それがこのようなアーティストを押し上げたとも言える。

膨張していたブーム期のレゲエシーンであったが、こんな形で文化としてのアイデンティティーは保たれていたのである。

 

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RUB-A-DUB MARKET

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BUNBUN the MC

サブカルチャー的な文脈で「日本語のレゲエ」を表現しようという動きもあった。

“異型ラガマフィン”を唱え、東京のサウンド『JAM MASTER』と『X-STACY』の元メンバーで結成された『RUB-A-DUB MARKET』、元LABRISHの店長でもあった大阪の『BUNBUN the MC』などはその代表格と言えるだろう。

 

その活動は、ブームに伴い客層も低年齢化していく中で「大人も聴けるレゲエ」を提示しよう!ということにも繋がっており、彼らもまた、この文化のピュアネスを保つために一役買っていた!!

 

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PART2STYLE SOUND

ちなみに『RUB-A-DUB MARKET』のメンバーであったMaLは同クルー散開後、DJユニット『PART 2 STYLE』として活躍し、ベースミュージックの分野で世界的な存在となっている。

根っからのレゲエ・リスナーには馴染みが薄いかも知れないが、「ベースミュージック」はレゲエから派生した姉妹ジャンルであり、そもそも“PART 2 STYLE”というワード自体が、80年代の、7インチレコードをひっくり返して行う伝統的なラバダブ・フリースタイルを指して言う言葉である。

 

 

 

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2007年には活動初期から日本語レゲエを強くサポートしていた西の雄・RED SPIDERのALL JAPANSE DUB MIX『爆走エンジェル』が、二枚組というフル・ボリュームでメジャー配給される。

Pro Toolsが普及する過程で日本人もののmixも全国のサウンドがリリースしていたが、その中において“決定打”とも呼べるものだった。

 

今の20代の人と喋ると“中学生の頃ジャパレゲ好きで『爆走エンジェル』よく聴いてました!!”という話をされることもとても多く、しみじみ隔世の感を禁じ得ない。

 

 

……しかし、ちょうどこの頃から「レゲエ、そろそろやばいんじゃない!?」という声が内外で囁かれるようになる。

田舎の末端のレゲエDeeJayだったぼくですらそんな空気をひしひしと感じていたぐらいなのだから、上の人たちはもっとだったろう。

『レゲエ祭』や『HIGHEST MOUNTAIN』などの大型フェスは変わらず数万人単位の集客をキープしていたが、クラブレベルでは2008年辺りから本格的に瓦解が始まり、00年代最後の2009年にもなると目に見えて集客に影響が出るようになった。完全に「ブーム」の反動が出てしまっていたのである。

ぼくも2008年頃にはMICを置いてしまい、以降DeeJayとしてのパフォーマンスは行っていない。

 

祭りのあとのさみしさが、嫌でもやってくるのなら……

 

子どもの頃、親父がカーステで流していたフォークソングが頭をよぎった。

何となくレゲエを聴く気分にはなれなかった。

 

 

 

<関連記事-【保存版】平成最後の大総括!日本語レゲエの30年史->

>>>Episode1:89年~90年代

>>>Episode2:2000年代

>>>Episode3:2010年代~あとがき




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