Text & Interview By Takashi Watanabe

ジャマイカの障害者支援に尽力するNPO法人「LINK UP JAJA」の永村夏美さん。大阪で育ち、15歳のときに出会ったレゲエが、彼女をジャマイカに強く惹きつけるきっかけとなりました。さらに、現地の文化や人々との交流を通じて、その思いは一層深まっていきます。今回のインタビューでは、彼女がどのようにジャマイカに惹かれ、障害者支援に至ったのかを2回にわたってお届けします。前編では、ジャマイカに飛び込んだ彼女の決意と体験を、後編では、現地での支援活動と今後のビジョンを掘り下げます。

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大阪での育ちとレゲエとの出会い

まず、夏美さんがどのようにしてジャマイカに行くことになったのか教えてください。

夏美:私は大阪市の東成区で育ちました。東成区は下町で、在日韓国・朝鮮人の方々も多く住む、歴史のある面白い地域なんです。母は身体障害者で、シングルマザーでした。当時はシングルマザーが今ほど一般的ではなく、例えば父の日の作文が学校で出されたとき、私は父親と暮らしていなかったにもかかわらず、作文に父親との生活を捏造して書いたこともあったようです(笑)。母が先生から「夏美ちゃんに本当のことを伝えてあげてください」と諭され、母は何のことか分からず驚いたというエピソードがあります。私はあまりその記憶がないんですが、小さい頃から文章を書くのが得意だったんです。

15歳のときにジャパニーズレゲエに出会ったのが、私の人生を大きく変えました。当時はレゲエが流行していて、大阪のアメ村(アメリカ村)には若者が多く集まっていました。当時の彼氏がレッドスパイダーの大ファンだったこともあり、その影響で私もすっかりレゲエに夢中になりました。そこからさらにレゲエの世界に引き込まれ、最終的にはボブ・マーリーなど本場ジャマイカのアーティストにも強く惹かれていきました。

進路を決めた瞬間:ノリで決まったジャマイカ行き

それで、ジャマイカに行こうと思うようになったんですね?

夏美:高校の進路について考える時期になっても、夜遊びもしてたし、大学に進学する気は全くなくて(笑)。進路の話が出るたびに「お前は何がしたいんや?」って先生に聞かれても、全然答えられずにいました。ある時、「ジャマイカに行きたい」ってノリで言ってしまったんです。その瞬間に先生が「ほんならジャマイカにも学校くらいあるやろ?」と言ったんです。それが、私には電気が走ったように感じて、「本当に行けるんや!」って、その時から本気でジャマイカ行きを決めました。


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初めてのジャマイカと留学生活

その後、初めてジャマイカに行ったときのことを教えてください。

夏美:2001年、17歳の時に父と一緒にジャマイカに行きました。高校2年生のときに、留学前の下見という感覚で、父が「どんなところか分からん場所にいきなり行かせられへん」と言って、一緒に行ってくれたんです。最初はただの旅行感覚でしたが、現地に着いてみると日本のサウンドマンが結構いて、その影響を受け、音楽や文化に圧倒されました。そこで「絶対にここに住む!」と強く思ったんです。


その後、留学生活ではどんな経験をされましたか?

夏美:1年8ヶ月間、語学学校に通いながら、毎週のようにダンスに行って、レゲエシーンやジャマイカの文化にどっぷりと浸かっていました。ゲットーにも興味を持って、ゲットーユーツたちと過ごす中で、自然とパトワも覚えました。本当に刺激的な日々で、毎日が新しい発見の連続でした。

事故とその後の人生の変化

日本に戻る前に何か大きな出来事があったんですか?

夏美:そうなんです。18歳の時にHALF WAY TREEでバスにひかれてしまいました。体が宙に浮いて、地面に叩きつけられて、意識を失いました。目が覚めた時には病院のベッドの上で、右側の顔面が潰れて前歯が一本なくなっていました。現地のラジオでも「日本人留学生が意識不明の重体」というニュースが流れていたそうです。でも、奇跡的に命が助かって、「一回死んで生き返りました(笑)」って感じでした。

それでもジャマイカへの思いは変わらなかったんですね。

夏美:はい、生きててよかったと心から思いましたし、ジャマイカが好きという気持ちは変わりませんでした。帰国することは選択せず、ジャマイカで治療を行うと決め、当初から予定していた1年8カ月の留学期間をジャマイカで過ごしました。


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日本での帰国と介護の仕事への道

その後、日本に戻ってからの生活はどうでしたか?

夏美:20歳の直前で日本に帰国しました。母のコネクションもあって、すぐに介護職に就きました。小さい頃から周りに障害者がいる環境で育っていたので、自然と介護や福祉の仕事に馴染むことができました。2年に一度くらいのペースでジャマイカに短期で行く生活を続けていましたが、現地の障害者支援の実情が気になってしょうがなくなっていったんです。


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2017年には、どうしても確かめたい気持ちが強くなり、一旦仕事を退職し、半年間、ジャマイカの最重度の障害者が暮らす施設でボランティア活動を行うことにしました。食事のサポートや排せつの介助などを担当しながら、福祉制度がほとんど整っていない環境で、現地の障害者がどれほど厳しい生活を送っているかを目の当たりにし、衝撃を受けました。同じ障害者であっても、住んでいる場所が違うだけでこれほど状況が異なるという現実に直面したんです。この半年間の滞在は「もっと腰を据えて支援活動をしたい」と強く心に刻まれる経験となりました。

レゲエと障害者支援をつなぐメッセージ

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レゲエやジャマイカの文化が、日本での活動にどう影響していますか?

夏美:私の周りの障害者の方たちは、単にお世話される存在ではなく、日本の障害福祉制度を作り上げてきた世代の方々なんです。彼らは署名活動や行政との交渉、国会議員との対話を通じて、自分たちの権利を勝ち取ってきました。何もないところから、彼ら自身が動いて福祉制度を作り上げていったんです。そうした姿を見てきたので、私も「自分の権利は自分で守る」という強い思いを持って育ちました。

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それは私の遺伝子の一部みたいなもので、ボブ・マーリーやマーカス・ガーベイのメッセージが響いたのも、そのためだと思います。彼らのメッセージの中で一番心に響いたのは「自分の権利のために立ち上がろう」というものです。ジャマイカのレゲエと日本の障害者運動は一見全然違うように見えますが、私の中では同じなんです。障害者の方たちは、本当に命をかけて闘ってきた世代で、国会前で飲まず食わずで抗議したり(=ハンガーストライキ)、命を張って権利を勝ち取ってきたんです。それが私にとっての“本当のレベル(REBEL:抵抗者)”だと感じます。

だからこそ、私はジャマイカでも同じように障害者の人たちが立ち上がって、何かを変えることができると信じています。日本でも何もないところから障害者が声を上げて福祉制度ができたのだから、先進国と同等の仕組みをすぐに作ることは困難でも、ジャマイカなりの支援制度を作ることはできるはずです。そして、一度きりの人生だからこそ、この挑戦をやり遂げたいという強い気持ちがあります。ボブ・マーリーやマーカス・ガーベイのようなリーダーがジャマイカに生まれたという背景も、その希望を感じさせてくれるんです。


「後編:ジャマイカで障害者支援に挑む使命」はこちら




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